仕事のあれこれ、京のあれこれColumn

2022.10.11

根付いた悪評は600年以上消えない!?
本当にあった怖い噂話 -時代祭編-

暑い夏が終わり、日に日に爽やかな秋の気配が感じられる季節になりました。今年も残りあと2ヶ月。繁忙シーズンに突入しようという時ですが、なぜか心は落ち着き払って読書でもしようかという気になる。酷暑から解き放たれ体がゆるむのか、はたまたそういう年頃なのか、秋って不思議。四季の中で一番好きな季節です。

さて、今回はそんな秋に行われる「時代祭」に関する“噂話”を一つ。あくまで噂ですので信憑性は定かではありません。しかし京都人ならありうる…と、個人的に思い当たる節があるので、これから京都で創業し、地元・京都人との関係を構築しようという経営者の方は、少し心して読んでいただいた方がいいかもしれません。でも怖がることはありませんよ。あくまでも参考までに。

市内を練り歩く歴史絵巻

市内各地でお祭りやイベントが行われる10月ですが、中でも代表的なものが10月22日に行われる「時代祭」と言えるでしょう。「時代祭」は、5月の「葵祭」、7月の「祇園祭」とともに京都三大祭の一つに挙げられる祭礼で、起源は明治時代。令和2年、令和3年は休止していましたが、令和4年は3年ぶりに催行されます。

祭りの見どころは明治期から平安期まで、つまり京都が都であった千年あまりに活躍した実在人物が時代衣装をまとって市中を練り歩くところ。朝、京都御所を出発し、およそ2キロメートル、総勢2000人が交通規制のかかった都大路を優雅に歩き、平安神宮へと至ります。

その様子を沿道から眺めるのですが、私のようなミーハーな者にとっては、歴史の授業で覚えたアノ人、大河ドラマにも出ているコノ人に会えるので、ちょっとテンション上がります。

例えば江戸末期を表す「維新志士列」。桂小五郎を筆頭に西郷吉之助(隆盛)、坂本龍馬と、そうそうたるメンツが登場しますが、昨日まではそのあたりを歩いていた一般人が駆り出されたのだと思うとちょっと面白い。口を一文字に結んで緊張の面持ちで進む人、ちょっと恥ずかしそうに笑みを浮かべながら歩く人。西郷なら西郷らしく、龍馬なら龍馬らしく振る舞っているのだろうと想像しながら見ると、これもまた一興なのです。

一方、公家たちの都落ちを表した「七卿落(しちきょうおち)」なんかは、本当に蓑に菅笠姿で京都から長州(山口)まで歩いて行ったのだろうと想像させるリアルさ。肩を落とし歩く三条実美は悲壮感さえ漂います。

「江戸時代婦人列」では、やはり公武合体のために幕府に降嫁した和宮が印象的。かわいいです。吉野大夫や出雲阿国のヘアスタイルや衣装も斬新で今見てもおしゃれ。そして「平安時代婦人列」では、ほんもの!? と見まごうほどの勇ましい甲冑姿の巴御前が馬に乗って現れます。おこしに乗った十二単姿の清少納言や紫式部も大変優美です。

宝塚のような気品と、ディズニーのようなエンタメ性、NHK大河ドラマのような重厚感を足して3で割ったような、京都的エレクトリカルパレード、とでも言いましょうか。稚拙な表現で恐縮ですが、私にはそれぐらい市民に親しまれている祭りと思うのです。

嫌われていた!? 室町時代

ところで、そんな時代祭に長い間、室町時代が入っていなかったことをご存じでしょうか。

室町時代といえば足利尊氏が開いた幕府で、3代将軍足利義満は金閣寺を創建し、8代の足利義政は銀閣寺を創建したことでも有名です。

風流な遊びを好んだ義満は、現在の京都府庁あたりに贅を尽くした「花の御所」を建て、工芸や芸能をもてはやしたことでも知られます。この“遊び”が京都の工芸の礎となり、芸能や茶道の深淵となった。室町文化が花開かなければ今の京都の伝統工芸はなかったと言っても過言ではないのです。

では、なぜそんな大事な室町期が時代祭から外れていたのか。
それは足利尊氏が京都人から嫌われていたから、という話を聞いたことがあります。

足利尊氏と言えば、もとは鎌倉幕府の御家人でしたが、幕府打倒を掲げて挙兵した後醍醐天皇とともに鎌倉幕府滅亡へと導き新しい時代を築いた人物。しかし、その後尊氏と後醍醐天皇の間に溝が生まれ、やがて尊氏は後醍醐天皇を京から追いやってしまうのです。

どうやら、これが京の人々の逆鱗にふれ、長年、時代祭に室町時代列が設けられなかったというのです。

天皇さんと京都人の深い関係

ご多聞にもれず、長い間、天皇のお住まいはここ京都にありましたから、京都人にとって帝は大変身近な存在でした。京都御所周辺をはじめ、洛中には御所の衣食住を支える職人や商人がたくさんいたと聞きます。

有名どころで言うと、老舗菓舗の「川端道喜」さん。同店は、長引く応仁の乱で食事もままならなかった帝に毎日「御朝物(おあさもの)」、つまりお餅を献上して支えていたといいます。その時に使用した通用門は「道喜門」と呼ばれ、今も京都御所に残ります。

京都人にとって天皇さんは畏敬の存在であり、もちつもたれつのご近所さん。そして大クライアントでもあった。そんな天皇さんを足利尊氏は追い出してしまったわけですから、京都人は仕事を奪われたようなもの。動揺は計り知れなかったでしょう。

しかし、それが要因となって時代祭から室町幕府列を除いていたとしたら、根に持ちすぎでは?と諌めたくなるような時空の超え方です。

おさらいですが時代祭が始まったのは明治時代。室町時代から数えると500年以上も後のことです。その後、2007年(平成19年)になってようやく時代祭に室町時代列が設けられるわけですから、尊氏が京都で総スカンを食らってから600年以上も経っている計算になります。
これはもう資金的な理由というよりは、何か因縁めいたものを感じずにはいられません。

何度も言いますが、これはあくまで噂話。しかし、京都で仕事をする身としてはどうしても他人事とは思えないのです。同時に天皇を畏れ敬い、心寄せる京都人の精神は幾世たとうとも普遍。今、このときも天皇の残像とともにこの街に息づいているのだなと感じます。

そういえば数年前、平成天皇が譲位されるというニュースが京都を駆け巡った日。生粋の京都人の方が、「京都に帰ってくればいいのに。そこに家もあるじゃない」と言っていました。

「家」とは京都御所のこと。たしかに立派な迎賓館などもありますが、「帰ってきたらいい」なんて、思いもよらない言葉でした。しかもまるで友達にでも言うような言葉づかい、思わず笑ってしまいました。でもよく考えてみればそうなのです。明治になって天皇は東京へ行ってしまったが、あれはいまだに仮の住まい。150年以上たったとはいえ、京都はいつでも帰りを待っているのです。

■information

京都御所

Columnist

五島 望 Nozomi Goto / ライター・編集企画業

京都精華大学卒。東京で漫画編集者を経て京都でライター、編集企画業をしています。このたびSTART UP KYOTO運営事務局さんから「京都をテーマにコラムを書いて欲しい」とのご依頼を受け、筆を取りました。テーマがテーマですので武者震いしますが、知っていると京都の見え方、過ごし方がちょっとおもしろくなるかも、というような内容をお伝えしていけたらと思っています。お仕事の参考になれば幸いです。よろしくお願いいたします。

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五島 望 Nozomi Goto
ライター・編集企画業

京都精華大学卒。東京で漫画編集者を経て京都でライター、編集企画業をしています。このたびSTART UP KYOTO運営事務局さんから「京都をテーマにコラムを書いて欲しい」とのご依頼を受け、筆を取りました。テーマがテーマですので武者震いしますが、知っていると京都の見え方、過ごし方がちょっとおもしろくなるかも、というような内容をお伝えしていけたらと思っています。お仕事の参考になれば幸いです。よろしくお願いいたします。